ご自愛とは戦うことである
Date2026/01/16こんにちは、kanaru_です。
今日は色んな路線が止まっていて災難な日でした。
私も交通手段が完全になくなってしまい、気合の徒歩で通勤しました。(1時間超え)
おかげで朝から運動できて、仕事の準備もばっちり。ほんと最高に……疲れて眠かったです。すんません。
さて、最近は疲れてぐったりする日もあれど、家に帰ったらあれこれやりたいなと思うことが多いです。
なんやかんやで応用技術の勉強が楽しいです。この前仕事で、「これ家で勉強したやつ!!」という学生気分に浸れたのはいい気持ちでした。
集中してやれてるかというと、そうでもないことの方が多いですけども。
自分は本当に習慣人間だと思うので、何年やってることでさえ1日2日途切れたら本当にやらなくなっちゃうんですよね。
だからこう、基準を激甘にして続いた風を装っている日もあります。「今日はテキスト触ったな、ヨシ」。
そのうちテキストが視界に入っただけで検問通っちゃう気がします。
今日は自分のやりたいことについて、どういう価値基準で決めているのかなというのを改めて考えてみました。
朝の過度な運動で頭がぼやっとしてて、急に日常の過ごし方が疑問に思えてきたんですよね。蜃気楼かもしれないですけど。
最近noteで読んだ記事で、こんなものがありました。
「ご自愛」について考える
私自身も、なんというか自分を大事にするのは得意ではない気がしています。
最近こそね、肌ケアしたり、ちゃんと睡眠・食事はしなくちゃいけないなとか、考えるようにはなりました。
でも、それは機械に油を注入する感じの物理的なメンテナンスであって、愛情からというよりは義務感とか切迫感みたいなものでしかないと思ってます。
他にも「やりたいことをやる」とかもいいと思うんですが、自分にとっては欲という感じがします。一方通行で向こう見ずな感じがして、愛じゃないなって気がします。
この記事の著者さんは、「自分宛の手紙」という存在を中心に自分を愛するきっかけを得たとのことでした。
これは共感できるなぁ……と思う一方で、他人の手を一度介すことによって自分への愛に気付くというのも不思議なものですよね。
手紙を書くということは、他人へ愛情を返すということ。そうなると、最初にこちらが愛情を与えないと、もちろん返ってこないわけです。
一方的な手紙は怖いですからね。何か意味があって、手紙があって、初めてそこに温度が宿るんだと思います。
そしてふと最初の議題に立ち返ってみると、一人でご自愛って無理なんじゃない?と思いました。
「愛したい」というのが欲求だとすると、「愛される」というのが愛です。
受動的でないといけない。だから、だれかに愛されないと、ご自愛にはならないのかな~と。
そういう前段があっての今回の話なんですが、私の心の承認欲求モンスターは果たして私を生かそうとしているのか、それとも身を滅ぼそうとしているのかです。
一般的に、自己評価が他人依存になるということはよろしくないというのは知っています。知ってはいるんですけど、いい味がするじゃないですか。
アドラー心理学とかに触れてみて、「鋼の心で自分を守ろう」と決意した日もあったんですが、その翌日にはもうゲームで下手こいた言い訳をしてましたよね。他人依存の自己保身モンスターです。
何度も欲求を改めようとは思ったんですが、やっぱり逃れられないと毎度悟ります。
年をとれば丸くなってくるのかなと思ったんですが、日常が日々の些事に埋もれていくことが多くなるたび、自分の獲得してきた色んなアイデンティティが喪失していく感覚が大きくて、ますます不安が大きくなってきました。
やっぱり、なんでもない自分になってしまうのが怖いんですよね。「〇〇さんと言えば〇〇」でありたい。ずっとそうありたい。
そうして、ちょっと過度に大きくなってしまった自分への信頼を、必死に守り続けようとしているときが一番生を感じます。
でもこれって、他人依存でありながら自分軸でもあるんですよね。
自分の中に悪魔が生まれる感覚があります。「サボってんじゃないよ!お前はこんなもんか!」と。
私はこの悪魔に負けたくないのかもしれないです。この悪魔を認めさせること、承認させることが私の思う承認欲求の一つです。
そこから実際に愛が返ってくることはなくて、永遠に悪魔は悪魔のままなんですが、副産物として他人から認められたりします。
それでなんとかこう、自我を保っているような気がします。
自分の中に生まれた悪魔という他人の虚像に対して承認欲求を発揮することで、結果的に他人から愛をもらえる。
これは果たしてご自愛なのか。でも満たされるのって、こういう場面ばっかりなんですよね。疲れて風呂に入ったときに満たされるのは、今日だけは悪魔を黙らせたからなんですね。
なんだか難しくなってきましたが、自分を追い込むことがむしろ自愛なのではないかなと。私はそういう生き物なんじゃないかと思ったのでした。
そうなると、私はきっと「やりたいことをやる」よりも「義務と錯覚させて追い込む」方が性に合ってるのかもしれません。
うーん、、、あんまり印象よくね~!
ひとつ気を付けることがあるとしたら、戦う場所を選ぶことでしょうかね。
自分にとっては追い込まれれば正直なんでもいい。でもやるなら他人からいっぱい愛が返ってきやすい場所でやったほうがいいねということです。
町で一番パソコンを壊すのがうまい人より、町で一番パソコンを直すのがうまい人の方が、感謝が多いですからね。
ということで、今日も労働というご自愛を頑張っていきます(?)。